「落武者の名は?~四百年語り継がれた眞田の伝承」


 

宗像市宮田 眞田一族の先祖の墓石(明和元年)


宗像大社の「お宮の田」という意味を持つ地名が、宗像市にある。朝町川流域に位置する宮田である。鎌倉時代に、その辺りに宗像神社末社の修理料所があったという。その宮田は、わが家にとって故郷であり、江戸時代の先祖のお墓が建っている場所でもある。

 わが家がお盆に花を供えてきたのが、先祖の医者の墓である。当主の墓は明和元年(1764年)から明治42年(1909年)のものまで5基、すべて身長より高い威圧的な五輪塔である。墓に詳しい人は、「黒田家の家老級の墓だ」と言う。「なぜ、医者の墓がこんなに立派なのか?」とずっと疑問に思っていた。

さらに、その疑問を難しくさせたのが当家の口伝と一族の間で語り継がれたいわれにあった。当家では、「先祖は関ヶ原の落武者だが、医者か坊主になれば、命を助けてもらえたので医者になった」というのである。そして、同じ一族で、昔から言われていたこと、それは「私たちは、眞田の子孫だ!?」である。

つじつまが合わないのは、関ヶ原の落武者が江戸時代に立派な墓石を建てられたことである。しかし、医者の墓より二代前の当主の墓も現存していて、それは立派ではなく、「自然石で作った墓石」だった。なるほど、関ヶ原で負けて孫の代くらいまでは、墓石は質素にしていたのだろう。きっと、初代の墓は墓標のない土盛だったに違いない。そういう風に解釈をすれば、つじつまも合ってくる。そして、実際に宮田には、「巨大な土盛の墓である、直径4mほどの塚が4基存在していた話を一族から聞いた。その塚は、毎年草刈をして大切に祀っていたとのこと。

確かに、落武者の話は信憑性がありそうだ。では、眞田の話は?昔から言われてきた話に疑問を呈するのは、一族や先祖に大変失礼かもしれない。しかし、眞田である根拠はどこにあるのか。

大坂の陣後、眞田の一行が豊臣秀頼とともに、薩摩落ちした話は有名だが、その一行が薩摩から宗像に来て、医者をしていたという話は俗説にはない。先祖は眞田の誰なのか?いったい、なぜ宗像の地で眞田が医者をしていたのか?

宗像には、対馬海峡を挟んで大陸や朝鮮半島と向き合ってきた歴史がある。この土地と眞田家との因縁は、実は豊臣政権による朝鮮出兵時からあったのではないか。大陸との交易や対外交渉に関連して、眞田家の役割があったと考えられる。玄界灘には、朝鮮出兵の後、国交回復のために来日した朝鮮通信使を福岡藩黒田家が接待した島、相島もある。(現代では、この島で外国人観光客をもてなすのは、100匹の猫たちである)

大河ドラマなどに描かれる、真田の舞台は、生まれ故郷の信州か華々しく討ち死にした大阪城かである。しかし、江戸時代以降、貿易港長崎から本州に向かう船などが通る玄界灘を見守る場所に、武士から医者に転身した眞田一族が、何かの情報収集のために、居住していたとしても何ら不思議ではない。

宮田で語り継がれた眞田の伝承は、関ヶ原の落武者のその後の境遇を語った貴重な話である。肝心なのは、口伝の中では真田幸村や大助について、いっさい語られていないことである。わが先祖は、物語の主人公ではなく、実在した眞田一族と思って間違いないようである。

ところで、宮田に存在した落武者の塚であるが、それを祀っていた一族の人たちは、その塚のことを「カガシジョウ」と呼んでいた。「カガシ」とは「某」と意味が同じで、「某尉」の墓ということか。落武者「左衛門尉」の実名を口に出すことを避けた言い方ともとれる。400年以上前に落武者であったわが眞田一族は、その後「眞田」の名を伏せて別の姓に改め、宮田や原町で庄屋、医者、酒造業などを営み、幕末を迎えた。中でも、一番永く続いている家に、江戸時代で一番古い先祖の名が伝わっている。その名は「眞田 善右衛門」(没年から察するに関ヶ原の落武者の子)である。

この名前を松代藩眞田家の家伝書「眞武内傳附録」(サナダナイデンフロク)で探してみたが、家系図には「善左衛門」はあるが、「善右衛門」の名はどこにもない。松代藩眞田家が、親戚である落武者本人や子の実名を包み隠さずに明記する必要はないし、落武者の親戚がいる不名誉は、むしろ書かないのが当たり前だ。400年前、日本全国に何万人もいた関ヶ原の落武者やその家族は皆、新しい土地で本名を知られることなく、生涯を終えていたと考えるのがごく自然である。 

 

眞田の伝承研究家 眞武 綾子 

  昭和42年卒 伊豆幸次(郷土史研究家)氏のご紹介