「津屋崎千軒」についての考察
私は昭和28年津屋崎町(現福津市)の新町に産まれた。大学時代と就職して暫く地元から離れていたが平成元年以降現在まで津屋崎在住である。ところが、成人して再度津屋崎に住み始めるまでの間、この「津屋崎千軒」という言葉は聞いたことがない。「藍の家」が平成6年に当時の津屋崎町へ寄贈されているので、おそらくその前後から、この名称が使われだしたのだろう。「津屋崎千軒」の主なコースは天神町から新町・北を通る約1キロの通りである。この通りは私が小学生の頃は、まだかなりにぎわっていた。特に魚屋はこの短い通りに5軒はあったと記憶している。更に八百屋・呉服屋・お菓子屋・酒屋等々日常生活に必要なだけの種類のお店が連なっていた。だが1960年代後半頃から、日本の他の街と同様に大規模店舗の出現によって、徐々にさびれていった。平成6年当時はほとんどの店が廃業し、数軒が細々と営業している状態だったと思う。そこでこのさびれた街並みを何とか活性化する方法の一つとして、江戸時代から明治時代にかけて塩田で栄えた時代があったという歴史的遺産をこの街並みに一部でも再現しようという試みが成されたのだと思う。私も今回「津屋崎千軒」について調べてみて初めて、それが塩田の歴史と深く関係していたことを知った次第である。以下に津屋崎塩田の歴史を簡単に記してみたいと思う。
この地の塩田は勝浦と津屋崎の二つの塩田から成り立っている。勝浦の塩田は歴史が古く室町時代に宗像大社に塩が収められたという記録が残っている。その後も細々と塩の生産は続いていたようだが、本格的な生産が始まったのは寛保元年(1741)に黒田藩家老吉田栄年の指示により、津屋崎塩田が開設されてからである。寛保3年(1743)には、大社元七が、塩浜庄屋に任命される。彼は当時製塩業が盛んであった讃岐の出身で、製塩に関する技術を持っていたことが任命の決め手となったと思われる、後に一族郎党で津屋崎に移住している。その後も津屋崎塩田は生産を高めてゆき、寛政9年(1797)には総生産高50万俵となり、筑前の塩消費量の90%を占めるようになり、一部は他藩へ出荷されるまでになった。明治時代になっても、その繁栄は続くが、明治38年(1905)の塩専売法が施行されると、津屋崎塩田の製造から販売まで一手に担っていた「津屋崎製塩株式会社」の経営は一気に悪化してゆく。さらに、明治政府は、塩の値段の下落を阻止するため、各地の塩田を整理してゆく。そして津屋崎塩田は、明治44年(1911)その対象となり廃田となってしまう。九州日報(明治43年10月5日)に以下のような記事が掲載された。
「製塩の小作人及び種々の従業者並に近在の塩俵製造業者石炭運搬人等を加えれば、約千人のものが直接製塩の為に衣食して居る。此外間接の恵みを受けて居るものは津屋崎全町八千の町民である。」
だがその後も、住民は大病院の誘致や海水浴場の整備等々様々な工夫・苦労を重ねてこの町を支え続けていった。そして現在に生きる我々は、自分たちの町の歴史を知ることによって、これからの新たな街づくりのよすがにする必要があるのではないだろうか。
昭和47年卒 竜口 正幸