貝原益軒の「筑前風土記」に取り上げている宗像阿弥陀仏経碑(重文)の真実

 

阿弥陀仏経碑は宗像大社に伝わる高さ2メートルの疑灰岩製の形が法隆寺の玉虫厨子を思わせる石造美術品である。現在、国の重要文化財に指定されている。宗像大社には建久6年(1195年)に着き、後3年間法要が行われたことが色定法師の記録に残されている。 

 碑は永らく屋外に設置され、風雨や拓本の打ち放だいで、刻まれた文字も判読できない箇所があり、その由来、目的も永らく不明であった。それと元禄17年(1704年)に木版本となった「宗像軍記」にこの碑のことが載せられたことが複雑にさせてしまった。「宗像軍記」では平重盛追善供養のためにこの仏像が造られたと書かれたことである。「宗像軍記」は以後多くの人に読まれ碑は広く知れ渡ることとなる。 

 貝原益軒もこれを鵜呑みにしし、「筑前風土記」に取り上げている。 

「宗像軍記」は予想外な反響を呼び、模刻碑も、正徳4年(1714年)に京都百万遍智恩寺と、延亨3年(1746年)に京都小松谷正林寺に建てられました。碑の研究は江戸時代から近世迄、幾度となく行われたが進展はなかった。 

 近年(昭和32年)の宗像大社修復の折、拓本から読み取れなかった文字が、粘土を用いて作った石膏型から判らなかった文字が判明するに至った。菩提の筆頭は、第35代大宮司・宗像氏実であり、その妻の王氏女であったのです。氏実の長男である氏忠も権大宮司となり、張氏女を妻としている。碑の追刻文にその名が見られる。数百年間判らなかった阿弥陀仏経碑の造られた目的は宗像氏実、その妻王氏女の追善碑だったのである。 

 

昭和42年卒 伊豆幸次(郷土史研究家)