乃木希典(まれすけ)陸軍大将

伊豆凡夫(つねお)陸軍少将


旅順203高地攻防戦の真実とそれを支えた伊豆凡夫(つねお)中佐(後に、少将

1904年(明治37年)8月、旅順港に集結するロシア海軍の旅順艦隊を眼下にする世界一とされた難攻不落のロシア陸軍の旅順要塞、とりわけ203高地の争奪戦は日露戦争自体の命運を握ることとなった。当時世界最大とされたバルチック艦隊の日本近海への到着までに極東の旅順艦隊を殲滅しないと日本の命運が尽きる。両軍は大攻防戦を繰り広げ、勝利した日本は高台から正確な位置を計測し、旅順艦隊を正確に捉えた砲撃で間もなく殲滅しその後の展望を見出した。

 世界の軍事専門家からは日本が5万の兵を失ったことも史上類を見ない高難度の塹壕戦からは必然視され、予想外の短期攻略での勝利に驚き、その歴史的偉業に括目した。

  後の伊豆凡夫陸軍少将は宗像郡赤間町冨地原(ふじわら)の伊豆文十郎の二男として生まれた。伊豆家は武丸の大庄屋伊豆家より分家して、冨地原(藤原)の庄屋となる。文十郎は三代目の庄屋に当たり、長男の利雄は台湾で警察署長を勤め、帰国後赤間町長となった。次男が凡夫で、三男が利次。利次は、後に母の実家福間町四角の名家河津家を継いだ。

 凡夫は軍人の道を選び陸士、陸大(8期)と進み、日清戦役では大山巌大将の副官として出征。日露戦役では乃木大将の第三軍の作戦参謀(陸軍中佐)として、203高地の戦いに参加した。世界史に残る難攻不落の旅順要塞の攻略戦において第一作戦参謀として終始粉骨砕身力を尽くし日本の勝利を支えた。開戦当初、砲弾にも微動だにしないロシア陸軍の驚異的な厚さのコンクリート壕からの砲撃や機関銃掃射の前で、日本軍は屍を乗り越える猛攻にもかかわらず武器の性能は劣り、弾薬の不足もあり、なかなか落とせず苦戦した。伊地知参謀長から一戸兵衛参謀長に代わり、攻略法も変え、一丸となった総攻撃により、ようやく陥落させることができた。

 旅順陥落の直後の日に敵将ステッセル中将と乃木大将は旅順近郊の水師営で会見。戦勝側が敗者に恥辱を与える処遇をとる世界の軍隊の常識に反し、敗軍の将に帯刀と正装を許し対等に遇した武士道精神は敵将のみならず世界中に感銘を以て報道され、称賛された。

 両者は互いの武勇防備を称え合った、ステッセル中将が乃木将軍の人の息子の戦死を悼、乃木は「二子が武門の家に生れ、軍人としてともにその死所を得たることを誇りに思う。」旨応えたとされるステッセル将軍は子息の冥福を祈り観音像を乃木将軍に手渡された。その観音像は会見後「自分は神道であり仏縁はない」とされ、乃木将軍より第一作戦参謀であった伊豆凡夫が拝領し現存する(上記写真)。

  後、伊豆凡夫は沙河奉天の大戦にも参加。

 明治40年大阪歩兵連隊長となり宗像郡民として初めての陸軍少将(閣下)となる。 

退役後は、富国徴兵生命の取締役となる。書家としても秀で、求められ多くの揮毫を遺した。 

 伊豆凡夫(蘿山)
いず・ぼんぷ(らざん) 

18641944。陸軍少将。富国徴兵保険会社創設者。 

親への孝養こそ、全ての行いの根本である。
七十七歳の老人 凡夫

 

補筆①観音像

ステッセル将軍より乃木将軍に渡された観音像は清国で製作されたものなのでやや趣を異にする。伊豆凡夫の弟である伊豆利次氏の養子先の河津家の家宝として大切に祭られている。

補筆② 203高地

西欧の観戦武官は全て日本軍の驚異的な敢闘精神に驚嘆した。この旅順攻略の激戦を経て、乃木・一戸・伊豆の深い繋がりができ後々まで交流が続きました。

補筆③「楠木公父子決別之所」記念碑の発意と実現 

明治9年に奈良県桜井に駐日英国公使パークス(サー・ハリースミス・パークス)が「楠木正成の誠忠に対し、一外国人として讃嘆を惜しまない」という賛を寄せた英文の記念碑を建てた。実際にパークスは正成ゆかりの地をたびたび訪れていたということです。楠木正成は、後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の親政の立役者として、足利尊氏と共に天皇を助けた。尊氏反抗後、湊川の戦いに向かう正成は、嫡男正行を河内国に帰らせ、その別れの場所が桜井の駅である。一外国人ですら、このような讃嘆の記念碑を残しているのに日本人として何ら為されていないことに伊豆凡夫は憂い、記念碑を設立することを熱望しました。その碑文の揮毫を乃木希典将軍に書かしめたのである。将軍は書して数日後、馬を駆って伊豆少将を訪い、一字一句の誤を正された。 

乃木将軍は間もなく亡くなりましたが、記念碑の設立費用は伊豆少将が全国を巡って資金を集め、建てられました。  

楠公父子決別の所 記念碑

伊豆凡夫(つねお)陸軍少将の尽力により建立

桜井駅跡の「駅」とは主要な道路において、30里ごとに設けられた馬など旅に必要なものを具備した施設のことです。

 

 補筆④東京宗像会への援助

伊豆凡夫は東京宗像会発足時からの関わりを持ち続け、監督という名目で亡くなる昭和19年まで東京で学ぶ郷里の学生たちを見守りました。 

補筆⑤『坂の上の雲』と史実

『坂の上の雲』において、乃木将軍に代わって児玉将軍が指揮を譲り受け203高地を攻略したという話になっているが史実としてそれを裏付けるような一次資料はないとされる。 

 

昭和42年卒 伊豆幸次(郷土史研究家)