尊王攘夷派・公家(五卿一行:百余名)の赤馬宿滞在
五卿西遷の碑 宗像市赤間
早川勇像 宗像市吉留
文久三年(1863)朝議の急変により、京都を脱出し都落ちになった七卿(三条実美(実)、三条西季知(知)、四条隆謌(謌)、東久世通禧(通)、壬生基修(修)、錦小路頼徳(頼)、澤宣嘉(宣))は長州の山口に移る。長州藩士も退却を命ぜられる。これが原因で元治元年(1864年)蛤御門の戦いが起こり長州は敗れる。
幕府は第一次長州征伐の軍を進める。そこで、長州藩は七卿を長府の功山寺に移した。七卿の内、澤宣嘉(宣)は生野の乱に参加するために長州を離れ錦小路頼徳(頼)は病死した為、五卿となる。
筑前黒田藩より使者として月形洗蔵、筑紫衛、早川勇ら外数人が長府に渡り、五卿に謁して筑前へ渡海することを勧める。最終的に五卿が筑前に移動することを条件に長州征伐の幕府軍解兵が行われた。しかし、幕府は五卿の引き渡しを事あるごとに求めてきた。慶応元年1月に五卿は赤馬宿に到着し、黒田藩御茶屋に25日間滞在することになる。出迎えたのは黒田藩中老の加藤司書である。加藤は五卿に対し帯刀して迎えた。これは貴人に対して無礼な作法であり、御茶屋門には竹矢来が組まれていた。黒田藩は囚人扱いをしたのである。これに憤慨した五卿は直ちに薩摩の西郷吉之助に使者を送り、西郷は早馬で赤馬宿に来訪し、仔細を問い正し、福岡藩に談判に出かける。
結果、福岡~赤馬間を二往復して五卿の待遇を改善させた。しかし、「三条実美公記」の中には、西郷の名は一つも出ていない。唯一そのことが判る記録が黒田藩の「五卿方御受取用金銭出入帳」の中に、西郷吉之助赤馬宿での料理代金の記載で判明される。
詳しくは五卿の従者(戸田雅楽:後の尾崎三郎)が明治維新後出した本(五卿赤間滞寓事情)に詳細が書かれている。
五卿には従者がそれぞれ居て、主従計五十人であった。その中には土方久元、中岡慎太郎も入っていた。それに護衛として長州藩士六十人、九州五藩から三十人程随行していたので百数十人からの人々を接待する地元赤間宿は大騒動であったろう。それを取り仕切ったのは、地元の大庄屋の石松三郎平(後の徳重正雄)であった。徳重は、後に脱藩し、西郷の居る薩摩へと走るのである。
五卿の大宰府到着までの費用は、実に三千八百七十八両、銀百六十五貫余に及んでいる。これを九州五藩で分担したのである。
昭和42年卒 伊豆幸次(郷土史研究家)